2004-06-26

正しい戦争

1.
そもそも藤原帰一は「介入」ということを論じていて,その付属として武力の携帯は止むを得ないし,コンゴとかでは軍事力の見せしめも必要だとしている。「軍事介入」という言葉は使った使わないは別にしても,思考の中では「介入」=「正しい戦争」というイコールは成立していない。

まず「介入」ありき。軍事(時には戦争に繋がる恐れ)は場合による手段の一つ。決して「軍事介入」とすぐに一くくりにすべきではないこと言っているのである。

そしてこの「軍事」という手段を使ってよいかどうかが,Walzerの「正戦(判断)論」との類似が出てくる(pp.30で挙げたのはアウグスティヌスだが,Walzerも類似)。

判断基準としての類似は,仕方がないこととも言えよう。しかし,念頭においている背景が,そして,その判断基準に辿り着く過程が,それぞれ異なっていることが,この場合重要なのである。曖昧な言い方をするのは,僕がWalzerを知らないので,なんとも決めかねるからです・・・


2.
pp.62の 「「正しい戦争」という概念はやはり平和に逆行する」,というセリフは,その前に,「その意味で」という但し書きがついていますよね。つまり,それで限定されているわけです。

どの意味においてか…「戦争はモラルに反する」との共通認識をもった,「安定した平和」が可能になった時期,においての話。
例えばナチスを例にしましょう。ほっとけない,ということで,武力行使を決めました。とりあえず,所謂「正戦」の基準も満たしていると仮定しましょう。つまり,「正しい戦争」です。

この「正しい戦争」は確かに「平和」に寄与するでしょう。では,なぜ「平和に反する」のか。それは,「正しい戦争」はあくまでも選びうる手段の中でも最後に来るべきであり,
(何況「正しくない戦争」),「正しい戦争」による「平和」は,他のもっと「平和的な手段」による「平和」の無限なる失敗を意味するからなのです。

「平和」は,戦争に拠るべきではない。戦争に拠る前に実現されているべきである。よって,全く余地がなくなった「正しい戦争」の「平和」は,成功だとしても,失敗を隠し持つ不完全な成功であって,本質は「平和」に反しているのです。

そこで現実的に戻ると,上述した前提を満たす場合がない今,まず「平和」ありきなら,不完全な成功でも評価されるかも知れない。しかし,その成功は不完全なものである,ということも,肝に銘じなければならないし,もっと「平和的手段」をリアルに駆使した「平和」を目指すべきである,ということなのではないでしょうか。

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