2006-01-15

カフカ的「SAYURI」

別に映画「SAYURI」にカフカ的示唆に富んでいるわけではなく、
ただボクが毎回毎回(4回ぐらいかな?)この映画を見に行こうとすると、
必ず何かしらの理由で行けなくなるので、不到達性を地に行ってるだけですが。

ちなみにそんなカフカ的気分にさせてくれる「SAYURI」ですが、
評判はイマイチ良くないですね。
英語で中国人俳優が日本の近代を演じるとか、
文化的誤解とか、どうとかはもう言い古されているのでまあ。

しかし、そもそもある映画(または文学、など)を他国に紹介するときに、
最低限の壁として、必ず言葉の問題はある。
日本の物語「SAYURI」を英語で演じることに批判があるけれど、
日本語で演じたところで、アメリカの観衆は英語字幕を読んでストーリーを理解するわけで。
観衆に伝わるものを字幕翻訳者一人に左右されるよりは、
脚本の時点で自然な英語にして、監督、役者たちの推敲を経た言葉にした方がいいかもしれないしね。

文化は不変なものではないはずだし、
それを他人(他国)に伝達するとき、
伝える側の形ばかりの正確さに注視して、
受容する側の様態を見落としてはいないか?
勘違いジャパニーズと叫ぶ前に。

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